九谷焼について
色絵磁器(※)の最高峰とも言われる九谷焼の歴史は、江戸時代初期の1655(明暦元)年ごろにさかのぼります。加賀の支藩、大聖寺藩の初代藩主・前田利治(まえだとしはる)が、領内の九谷(現在の石川県加賀市の山間部)で鉱山開発中に良質の陶石が発見されたのをきっかけに、鉱山開発に務めていた後藤才次郎に命じて肥前有田で製陶を学ばせました。その技術を導入し、九谷に窯を築いたのが始まりとされています。
九谷の窯は1730(享保15)年ごろに突然、閉じられてしまいます。この間に焼かれたものが後世、古九谷(こくたに)と呼ばれ、日本の色絵磁器の代表として独特の力強い様式美が高く評価されています。どうして古九谷が突然消えてしまったのかの理由については諸説ありますが、どの説も確かな証拠がなく、古九谷はいまだに不明な点が多い「謎の焼き物」とされています。
謎が残る古九谷の廃窯(はいよう)から、およそ百年後の1807(文化四)年に加賀藩が京都から青木木米を招き金沢の春日山 (現在の金沢市山の上町)に春日山窯を開かせたのを皮切りに、多くの窯が加賀地方一帯に開かれました。これらの窯で焼かれたものを「再興九谷」といいます。また同じ頃、能美郡の花坂山(現在の小松市八幡)で、新たな陶石が発見されて今日まで主要な採石場となっています。
明治時代に入ってからは、九谷庄三(くたにしょうざ)が西洋から入った顔料を取り入れて彩色金欄手を確立し、庄三風と呼ばれる画風は後に西洋に輸出される九谷焼の大半に取り入れられることになりました。
今日の九谷焼は、各時代の窯の上絵付けの作風を源流に、以前にも増して活発な生産が続けられています。
(※)色絵磁器とは、本焼きした磁器の上に、赤、緑、黄などの上絵具で模様を描き、それをさらに上絵窯に入れて焼き付けたもの。 写真:古九谷窯跡(加賀市山中温泉九谷町地内)青手土坡二牡丹図大平鉢 古九谷 (石川県九谷焼美術館蔵)